「学校に行けば、いい教育を受けられる」
多くの親御さんが、そう信じています。
しかし、そもそも日本の「教育」とは何のために行われているのか、正確に答えられる人は少ないのではないでしょうか。
今回は、日本の教育の定義と歴史を掘り下げながら、「真の教育とは何か」 について、我が子の子育てに向き合う親御さんに考えていただきたいことをお伝えします。
目次
日本の「教育の定義」を知っていますか?
日本における教育の定義は、教育基本法の中に明記されています。
すべての教育機関は、この教育基本法に基づいて子どもたちを教育しています。
その定義がこちらです。
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
この条文を読んで、違和感を覚える親御さんはいないでしょうか。
私はこれを素直に受け入れることができませんでした。
頭では「なんとなくそれでいいのかな?」と思っても、心では「これは間違っているのでは?」とモヤモヤしてしまうのです。
引っかかるのは、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた」 という部分です。
この条文が示しているのは、教育の目的が
個人のため < 国家および社会のため
だということです。
つまり日本の教育とは、国家および社会で役立つ人間を育てることが目的として法律に明記されているのです。
親である私たちが「我が子の幸せのために」と願いながら教育を考えても、この国の教育現場では、国家や社会に役立つ人間を育てることが優先されているのです。
本当に、これでいいのでしょうか?
教育の定義 = 洗脳の定義
天才脳機能学者・苫米地英人博士は、教育の本質についてこう述べています。
教育の本質は、第三者利益のためではなく、本人の利益のためである。そのため本来、教育は洗脳とはいえない。
しかし、国家のレベルを超えて見たとき、本当にその国の教育が本人の利益のためであり、第三者の利益のためでないかどうかは、気をつける必要があるだろう。
自身では教育だと思っていたのに、世界レベルでは洗脳だったということがある。
[出典:洗脳護身術 著者:苫米地英人]
さらに、洗脳についてこうも述べています。
そもそも洗脳というのは、第三者の利益のために行われている行為。 一方で、自分のために行われている行為は、教育と呼ばれている。 実はやっていることは同じなんです。
[天才脳機能学者・苫米地英人の「脱・洗脳せよ!」論より]
つまり、教育と洗脳の違いは「誰の利益のために行われるか」だけであり、やっていることは本質的に同じだというのです。
そして日本の教育基本法が示している「国家および社会の形成者として必要な資質を育成する」という目的は、まさに第三者(国家・社会)の利益のために他なりません。
苫米地博士の定義に照らし合わせれば、これは教育ではなく洗脳に近いということになります。
日本の教育の歴史が示すもの
現在の日本の教育の仕組みは、戦後復興を目的として設計されたものがルーツです。
国民が一致団結して復興に向かうことを前提として作られているため、義務教育の多くが「既存の社会システムに適応できる人間を育てること」に重きを置いています。
その後、数十年の時間の経過とともに探究学習・アクティブラーニング・プログラミング教育などの新しい取り組みが加えられてきましたが、根本的な思想は変わっていません。
「子どもを、大人が作った仕組みの中で役立つ存在にする」
これが、100年以上変わらない日本の教育の本質なのです。
真の教育とは何か?
本来の教育とは、一人ひとりの子どもの利益のために行われるものでなければならないと私は考えています。
「子どもの利益」とは何か。
それは、その子がやりたいことを実現し、幸せを感じながら生きることではないでしょうか。
そう考えると、大人の正しい関わり方が見えてきます。
既存の社会システムへの適応を求め、画一的な競争に勝つことを目指す教育ではなく、その子固有の才能・興味・個性を引き出すことが、真の教育の姿です。
新しく生まれた子どもたちの中には、私たちの世代とは違う、本当の意味での天才児が多くいます。
しかし残念なことに、そうした才能ある子どもたちの多くは、旧来の画一的な教育の仕組みの中で上手く適応できず、潰されてしまっているのです。
今、親にできること
国や教育現場をすぐに変えることはできません。
しかし、親である私たちには今すぐできることがあります。
「正しい教育の本質を知り、我が子の才能と向き合うこと」
学校に任せきりにするのではなく、家庭での関わり方・環境の作り方・子どもの才能の見つけ方を親自身が学ぶこと。それが、幸せな秀才児を育てる最初の一歩です。
『幸せな秀才児』が増えることが、私の最大の喜びです。
